さつきコース・1番ホール付近にある戊辰戦争砲台跡

秋田魁新報掲載記事(昭和55年12月18日)

椿台決戦 -雄和町-

 慶応4年(1868)7月13日、三崎口(象潟町小砂川)の戦闘で始まった秋田における戊辰戦争は、2ヶ月近く経た9月初めまでに久保田藩領の3分の2と由利諸藩のほとんどを戦場と化した。現在の行政区分でいえば、戦禍を被らなかったのは能代・山本、男鹿・南秋だけ。秋田市は下浜一帯が焼け野原となり、海側の酒田街道では長浜まで、内陸の羽州街道は雄和町椿台まで庄内各隊に迫られている。久保田城下は風前のともしびだった。
 すでに8月28日、米沢藩は越後口で降服、翌29日には仙台藩が太平洋側より攻め込んだ熊本藩軍に帰順を申し出ており、9月に入って新政府軍に抵抗するのは会津、庄内、南部を数えるのみだった。もっとも、久保田領内で戦闘中の仙台軍には本藩からの連絡が遅かったため、仙台各隊の総軍引き揚げは9月10日以降になるが、庄内各隊は最後まで強硬に戦う。その最後の一戦が椿台と長浜の決戦であり、大村藩少年鼓手浜田謹吾が散った刈和野攻防だった。

戊辰戦争終局へ ―激戦、庄内隊は敗走 城下ようやく安泰-

8月末から9月にかけての庄内各隊の布陣は、一、二番隊が大曲から刈和野一帯、三、四番隊は亀田から道川までを占める。一、二番隊による角館攻略は失敗したが、三、四番隊は椿台、長浜を突破して一気に久保田城下に迫ろうとする。酒井兵部率いる三番隊は長浜攻め、松平権十郎指揮する四番隊約千人が椿台攻略にかかる。
 椿台には秋田新田城。佐竹分家の筆頭・佐竹壱岐義理(よしさと)が戦闘の始まる6ヶ月前、慶応4年3月に築城したばかりで、地名から椿台城とも呼ばれる。久保田藩最後の防衛地点として渋江内膳隊を主力に矢島、仁賀保の諸隊、さらには薩摩、佐賀、新庄からの援軍も詰めかけていた。
 亀田から大正寺、女米木をたどって村々を焼き尽くした庄内四番隊は9月9日、妙法、安養寺口から糠塚森に陣を構えた。標高100㍍前後の台地で、西約2㌔に椿台が広がる。
 10日、戸島方向から薩摩隊と本荘藩兵らが糠塚森を砲撃。安養寺村はこの日焼打ちされた。椿台周辺のいたる所で戦闘が繰り広げられ、秋田方は戦死9人、負傷者8人を出した。

 翌11日が最激戦となる。明け方、庄内隊は戦線4㌔にもおよぶ鵬翼の陣形を張り、糠塚森、安養寺、妙法の三方から椿台に押し寄せた。「きょうは必ず椿台の新城を陥れ、騎虎(きこ)の勢いで久保田城へ」の意気である。
 迎え撃つ新政府軍は糠塚森攻撃、椿台防御、椿川からの背面攻撃、安養寺襲撃と四方に各隊を振り分け、最後は大包囲作戦で庄内隊を一挙に葬ろうとする。このころには久保田藩の諸隊にも新式銃が行き渡っており、「ここで踏みとどまらなければ」の危機感も強かった。攻められては逃げ、各記録に「庄兵強し」の記述が多かったのに、この戦闘だけは一味違ったものになる。銃撃戦が得意な薩摩隊、佐賀隊の援護を得て、諸隊が最前線に躍り出たのだ。台地といわず、沢といわず死闘が繰り広げられ、砲弾の硝煙で昼なおおぼろとなった。
 「戊辰秋田藩戦記」は「ついに全勝を占めたり」と誇らしく書き、「この戦、諸兵勇戦して敵を討つこと数限りなし。後日、山間に捨てられた死体を見ること多し。村民によれば、運んだ死傷者は100人以上を数えた」としている。久保田藩諸隊の戦死は2人、負傷は10人だった。庄内隊は夕やみにまぎれ、神ケ村から亀田、刈和野の二方向に敗走する。久保田城下の憂慮はようやく晴れた。

 秋田戦記によると、14日、仙北の戦場(場所不明)で庄内藩が前線部隊にあてた手紙を、久保田藩兵が拾った。「米沢は謝罪、仙台は庄内にも謝罪を勧める様子。このあとどうなるかは予想できない」とあった。暗に総軍引き揚げの準備を命じている。この手紙が椿台・長浜決戦の前だったのか後に届いたかは不明だが、三、四番隊は翌12日の長浜攻めを最後に鶴岡の自藩めざし引き揚げた。
 由利・仙北の戦火もようやくやんだ。9月23日、会津若松城が落城、25日には南部藩が降伏。薩長に最後まで抵抗し、強兵の名を響かせた庄内藩が降伏したのは9月27日だった。その前、9月8日には元号が「慶応」から「明治」に変わり、官僚中心の中央集権政治が実質的にスタートしていた。


 数多い古戦場の中で、百十数年間でこれほど変容を遂げた地も珍しい。新政府軍が本陣を構えた椿台城はもちろんなく、大地のほとんどはゴルフ場となった。周辺に士塁は残るが、フェアウェイのうねりに激戦地をしのぶよすがもない。現在、アウトコース1番と9番の間の小高いマウンドが砲台跡だという。最激戦地はインコース11番、12番から糠塚森にかけての台地。いまは放牧場となっている。
 糠塚森も大きく変わった。来年6月開港する新秋田空港滑走路の一部となった。大砲や洋式銃が新兵器とされた維新の時代から見れば、ジェット機が飛ぶのは夢のまた夢。血塗られた戦場は、そんな様変わりの地になろうとしている。


▼椿台藩の一夜城
 慶応4年3月に築かれた椿台城は、佐竹壱岐義理が岩崎藩主(湯沢市)となる明治3年2月までのわずか2年間しか存在しなかった。一夜にして生まれ、そして歴史から消えた。
 壱岐家は佐竹分家の筆頭。「秋田新田二万石」を領していたが、新田は特定の地名ではなく、久保田藩米から2万石を与えられていただけ。江戸・浅草鳥越にいたことから「鳥越様」と呼ばれていた。それが慶応4年になって椿台に城を築き、「椿台藩」を名乗る。義理はわずか10歳だった。幕末の風雲急なことから、久保田城南の防衛的な意味合いもあったのだろう。平山城で屋敷邸2万坪(約660㌃)。内町・外町に分かれ、内町は約150戸、外町は約160戸でほとんどが長屋造り。城郭の周囲は土塁を巡らし、4ヶ所に番所を置いて警戒に厳重を極めた。城内には馬場を設け、水道も敷設された。外町の住民は主として商工業を営み、また、桑畑を経営して盛んに養蚕業を営んだ。松竹梅三軒の料理屋もあって繫盛、城郭一帯は小市街地の観を呈した。しかし、義理の岩崎移動とともに、内町外町の住人たちも城主に従って岩崎に移住。このため明治35、6年ごろまでは数軒残っていた住家は、現在一軒もない。短時間で建設され、ものの見事にすべてをまっ消した城郭は、まさに″幻の市街地″。
 河辺町戸島の満蔵寺に家臣の墓が10基ほど。また雄和町平沢の長泉寺には40戸ほどの城関係壇徒がいて墓がある。義理は後に貴族院議員。大正3年4月26日、52歳で没。

椿台藩主から岩崎藩主となった佐竹義理

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